| 未来の子供たちへの童話(3) |
平成12年7月30日(日)朝日新聞掲載 |
倉本 聰 |
「人間には、字ってもンがあるらしいぞ」
「字って何だ」
「よく判らんが記号のようなもンらしい。たとえばわしらが山って云うべ。それを記すのにヤっていう記号とマっていう記号が別々にあってそれを並べて書くんだと」
「どうしてそんな面倒なことするンだ。山なら山の絵を描きゃいゝべ」
二人のニングルが山合いの道を歩いています。
夕陽がもう山陰に落ちかけていて、二人の影を長く伸ばしています。二人が急に立止ったり、もう一人の後ろへ走ったりしているのは、彼らがお互いの長く伸びた影を踏んづけてしまう遊びをしているからで、うまくぴたっと影をふまれるとそれはもう本人に体の方も動くことが出来なくなってしまうわけで、そうするとその場でその形のまゝかたまり、ピタッとストップモーションしなくてはならないのです。その遊びのことを、影踏み、と彼らは呼んでいます。
二人のニングルはまだ若い兄弟です。若いといっても46才と32才ですが。
兄さんのニングルが弟の影を、うまくぴたっと踏んでしまったので、弟は動けなくなってしまいました。かたまった弟に兄さんが言いました。
「絵にして描けるもンだけじゃない。何でもかんでも人間ちゅうもンは、字で書いて相手に渡すもンなンだと」
「ヤアヤア、人間はしゃべるのが苦手なンか」
「苦手でなくても字を書くらしい」
「聞けば判るぞ」
「したっけ聞いても忘れる奴がおる」
「ヤアヤア、人間はすぐ忘れるンか」
「どうもそういうことらしい」
兄さんニングルが急に足を外したので弟はずっこけ、そのまま又影を引き安全な場所へ走ります。
「わしなら一度聞きゃ全部おぼえるぞ。数え唄だって一度でおぼえたし、木の名前だって知ったら忘れんが」
「それがさ。ニンゲ 」
今度は弟に影を踏まれて兄さんニングルがかたまりました。かたまったときは本当は唇を動かしてもいけないので、腹話術みたいなしゃべり方になります。
「人間も昔は、字なンて使っておらなンだらしい。それが字ちゅうもンを考え出したら、忘れても平気だからうれしくなって、どんどんどんどん忘れるようになって、もう字なしには生きられんようになった」
弟がびっくりして足をはなしたので、兄さんニングルは金縛りが解け、思わずつんのめって石につまづきました。
「ヤアヤア、字がないと生きられんてか!」
「そうだ」
「ヤアヤア、わしら字なしに生きとるぞ!」
「一度知ったらもう駄目なンじゃ」
「ヤアヤアそんならイヨシキ爺ちゃんの、酒がはなせんのと同じことか!」
「それよ!サケシバリよ!」
「そんじゃ人間は字シバリか!」
「ジシバリよ!」
酒しばりとはニングルの言葉で、酒に縛られてまゝならぬ人、即ちアルコール依存症の人のことを言うわけで、そこからすると人間は、字に縛られてまゝならぬ、と、そういう意味になるわけでしょう。
何てまずいもの考え出したンだ!弟ニングルは可哀想な人間のことを想像してもう胸がいっぱいになってしまい、影踏みも忘れて黙々と歩きます。
「それで人間はな、紙ってもンに字を書くンだが」
「紙って何だ」
「木の皮みたいにペラペラなもンだ」
「どこで採れる」
「採るンでなくて作るらしい」
「ペラペラをわざわざ作るンか!」
「らしい」
「いちいち作ったら疲れるぞ」
「疲れてもせっせと作るンだ。そうせんと書くことが多くて追いつかん」
「書いたらその紙はどうするんじゃ」
「そこさ。気がついたらその量が多すぎて人間は今ひどく個まっとるらしい」
「そんなに多いのか」
「全部積んだらこの大雪山や十勝岳、その位の山になってしまったらしい」
「ゲッ」
夕陽が山の端に半分入って、二人の影がぼやけて来ました。
弟ニングルはもう考えこんでしまって、すっかり無口になっています。人間のおしゃべりのいっぱい書きこまれた紙が、大雪山や十勝岳ぐらいの高さになっているというのですから、これはもう考えるなという方が無理です。
紙で出来た山。
おしゃべりのいっぱいつまった山。
夕陽がついに山にかくれて、にわかにあたりが涼しくなりました。
かすれた声で弟が聞きました。
「で、その山はどこにあるンだ」
「町にあるらしい」
「人間は町に建物だけでなく、大きな山も作ってしまうんか」
「多分」
西風が梢をサラサラと鳴らして過ぎました。人間ってすごい!と弟は思いました。
「その山にはきっと、木もあるんだろうな」
「そりゃあ山だから木はあるんだろう」
「森もあるのかな」
「森もあるだろう」
「鳥もいるよな」
「無論鳥はいる」
弟ニングルの頭の中に、まだ見たことのない紙で出来た山が、どんどんふくれてそびえ立ってきます。
「春になったらきっとその山の木は字の形をした色んな花を枝の先にいっぱいつけるンだろうな」
「そうさ。そうして風が吹いたら、書かれた字たちがしゃべり出すのさ。紙に書かれてた色んな言葉をな」
兄さんニングルの言葉を聞きながら、何故かその時弟ニングルは、胸の底の方が急に悲しくなり、わけもなく涙をこぼしたのでした。
なにか人間のやることって悲しい。人間ってすごく可哀想だ。
そして弟ニングルは、シュンと一発鼻水をすすりました。
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