TEPCO

東京電力ホールディングス株式会社

中田エミリー × 第一保全部
タービン(2・3号)グループ
マネージャー
柳 勝司

SPECIAL INTERVIEW
新潟で働く
私たちの思いVol.3

2017年11月取材

SCROLL

あの日のバトンを、
決意に変えてつないでいく。

発電所では、
万が一に備えて
どんなことを
やっているのですか?

中田
今日はよろしくお願いします。
早速ですが、柳さんは、発電所でどんなお仕事をされているのですか?
私は、普段は発電に使用するタービン(羽根車)のメンテナンスを行っています。そして、事故などの緊急時には、復旧班の注水隊として活動します。そのため、原子炉へ速やかに注水を行うための訓練を繰り返し行っています。
中田
原子炉への注水?何のためにそんなことが必要なのですか?
原子力発電は、運転を停止しても原子炉内の燃料を冷やし続けることが重要です。しかし、福島第一原子力発電所の事故では、電気が使えなくなり、冷やすことができなくなったことによって、重大な事故へと進展させてしまいました。その反省から、柏崎刈羽原子力発電所では、緊急時に様々な方法で原子炉を冷やす対策に取り組んでいます。その一つが、この消防ポンプ車による注水です。
中田
これは、消防車ですよね?
そうですね。消火にも使用できますが、緊急時に原子炉建屋へ駆けつけ、高台にある貯水池の水を原子炉へ注水するポンプの役割も果たします。
中田
事故が起こっている時の原子炉建屋に駆けつけるのって・・・
確かに簡単なことではないと思います。しかし、福島第一の事故当時、事故を一刻でも早く収束させようと決死の覚悟で戦っていた仲間たちを見てきた人間としては、この生まれ育った柏崎を危険な目に遭わせないためにも、自分が先頭に立って取り組んでいくんだという思いで、安全対策をすすめています。

福島第一の事故の経験は、
取り組みに対する姿勢に
どんな影響を与えましたか?

中田
福島第一の事故のお話が出てきましたけれど、あの時、柳さんはどちらにいらっしゃったのですか?
原子力発電所の建設事務所がある青森県にいました。そして、事故から1週間後には、東京本社からの要請で首相官邸へ詰めることになり、そこで約1ヵ月半、本社と首相官邸との連絡などを行っていました。
中田
え、首相官邸!それじゃあ、まさに国の中枢で事故対応をされていたのですね。
はい。絶対に対応を間違うわけにはいかないという非常に緊迫した現場におりました。その中で逐次報告される発電所の情報に触れながら、「みんな頑張ってくれよ」と祈ることしかできない自分にもどかしさも感じていました。
中田
そうだったのですね・・・
その後、福島第一に勤務することになり、作業員の休憩所を作るなどの作業に従事したのですが、事故現場を目の当たりにし、我々は取り返しのつかないことを起こしてしまったと身にしみて感じました。
中田
その後、生まれ故郷のこの地に戻られたのですか?
はい。だからでしょうか、絶対にこの地を危険な目に遭わせないんだという強い思いを持つようになりました。
中田
その思いは、部下の方などにも伝えられているのですか?
部下たちには事あるごとに、私が事故当時やその後の福島で経験した事を話しています。そして、「二度とあのような事故を起こさない」という強い決意のもとで、みなが一丸となって日々の安全対策に取り組めるようにしています。

今、発電所にとって
大切なこととは、何ですか?

中田
では、そんな経験をされた柳さんは、柏崎刈羽原子力発電所をこれからどんな発電所にしていきたいと思っているんですか。
実は先日、私の家族が初めて発電所を見学しました。もちろん、今までも私の仕事を応援してくれていたのですが、安全対策を実際に目にして、取り組みを理解し、「ここまでやっているなんて知らなかった。これなら、安心」とも言ってくれました。
その時に、実際に見てもらうことの大切さを感じました。ですから今は、新潟の一人でも多くのみなさまに発電所を訪れていただいて、安全対策を実際に見ていただきたいと思っています。そのためにも、情報発信などを通じて、みなさまが身近に感じる発電所にしていきたいと思っています。
そして、私たちは、いつ見ていただいても恥ずかしくないように、常により高いレベルの安全を追求して、取り組みを続けていきたいと思っています。
中田
身近な発電所!確かにそれは私たちにとってもうれしいですよね。
その柳さんの夢、早くかなえてください!
はい。がんばります。